プラハ国立美術館(Narodni galerie v Praze)は、チェコの首都プラハにある美術館群で、1796年に設立されました。以下の部門に分かれています。
シュテルンベルク宮殿(?ternbersky palac):バロック期までのヨーロッパ美術
シュヴァルツェンベルク宮殿(Schwarzenbersky palac):ボヘミアのバロック美術
聖イジー聖堂(Kla?ter svateho Ji?i):ボヘミアの19世紀美術
アネシュカ修道院(Kla?ter svate Ane?ky ?eske):ボヘミア及び中央ヨーロッパの中世美術
ヴェレトゥルジュニー宮殿(Veletr?ni palac):20世紀および21世紀美術
キンスキー宮殿(Palac Kinskych):17世紀から20世紀までのチェコ風景画コレクション
これらの建物群は、それぞれ異なる時代や地域の美術を展示しており、訪れる人々に幅広い芸術体験を提供しています。
プラハ国立美術館は、チェコの国民的な芸術財産と遺産を保護する最大かつ最も重要な芸術機関とされています。
作品名 | 薔薇冠の祝祭 |
作者 | アルブレヒト・デューラー |
制作年代 | 1506年 |
寸法 | 162×194.5cm |
この作品は、1505年から1507年にかけてヴェネツィアに滞在したドイツ・ルネサンスの画家デューラーが、現地のドイツ商人の依頼でサンバルトロメオ教会の祭壇画として描いたものです。
画面には、左側の教皇ユリウス2世と右側の皇帝マクシミリアン1世が聖母子から薔薇冠を受け取る様子が表され、右奥には自画像と署名を添えた画家自身も姿を見せます。
色彩の鮮やかさや画面構成の優れさは、画家がヴェネツィア美術を研究した成果を示しています。
作品名 | 読書する学者 |
作者 | レンブラント・ファン・レイン |
制作年代 | 1634年 |
寸法 | 141×135cm |
書物に没頭する学者が、 一瞬だけ視線を外したところを捉えた作品で、 静かな場面に動きが感じられます。
影と光のコントラストや身体の動きを駆使した劇的な表現法は、 レンブラントの後期の特徴となるものが、28歳の若さでこの作品にすでに現れています。
1631年ごろに故郷のライデンからアムステルダムに移住し、 オランダを代表する画家としての道を歩み始めたばかりの画家は、この年にサスキアと結婚しました。
作品名 | スラヴィア |
作者 | アルフォンス・ミュシャ |
制作年代 | 1908年 |
寸法 | 154 cm × 72.5 cm |
「芸術は自分の内側から出てくるものであるべきだ」という信念を貫いた、チェコ生まれの画家アルフォンス・ミュシャ。
『スラヴィア』は、ミュシャが故郷への思いをスラヴの女神に託し、48歳の時に描いた作品です。
アール・ヌーヴォー特有の装飾的な画面に描かれた、美しい女性像・・・・・・
30代後半になって、ミュシャはその優雅な表現で19世紀末のパリを魅了しました。
しかし、この頃のミュシャは、まだ“内側から出てくるテーマに出会っていたとは言えません。それに気づかせてくれたのは、1900年のパリ万国博覧会でした。
ボスニア・ヘルツェゴビナ館の室内装飾を依頼され、スラヴ民族の歴史を調べる中で、ミュシャはスラヴ民族の一員としての自覚に目覚めていきます。「多くの支配、動乱の中で生きてきた故郷の歴史と誇りを表現したい」。そう思ったミュシャは、40歳以降の人生を、スラヴへの賛美歌『スラヴ叙事詩』を描くことに捧げると決意します。
『スラヴ叙事詩』のパトロン探しに渡米したミュシャが、その地で大金持ちクレインと知り合ったのは、1904年のことでした。
クレインはミュシャの熱心な説得によって、6年後、支援に同意する。『スラヴィア』は、ミュシャがクレインの娘をスラヴの女神に見立てて描いた、力作です。
芸術家として自分の進むべき道が明らかになり、この2年前には一生涯の伴侶マリー(マルシュカ)を得て、公私ともに充実していたミュシャ。
輝かしい『スラヴィア』の画面には、当時の画家の心境が映されています。
植物の文様で飾られた画面の中心で、誇らしく、気高い表情を浮かべる民族衣装の女神。
この作品は、ミュシャの名声を築いたアール・ヌーヴォー様式を引き継ぎつつも、そこに画家の本質となる民族意識が融合され、スラヴ民族の鼓動を感じさせる一大傑作となりました。